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読書記録と日常のあれこれ。

本当の勇気は弱さを認めること|読書メモ

TEDのThe power of vulnerabilityを見たのをきっかけにより深く理解するために本書を読んでみた。
生きることは傷つくこと。何かに挑戦しようとするとき、傷つくリスクは常に付きまとっていて、挑戦の阻害要因になっていて、本書では「恥が不安を生み、不安がリスク回避を生み、リスク回避がイノベーションをつぶすのである」という一説で語られている。
弱い自分と向き合うのは怖い。でも目をそむけながら生きていくのはすごく辛いし場合によってはその行為が最大のリスクになる。
過度に周囲の目を気にすることなく、今の自分を知り、認めることが大事。
自分の人生に責任を負えるのは自分だけ。「何もしない」という最大の失敗に陥らないようにヴァルネラビリティを意識していきたい。
印象に残った部分を一部メモしておく。


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書籍情報

‐著者 ブレネー・ブラウン
‐発行 2013年8月30日

章立て

  • 第1章 「いつも何かが足りない」という不安
  • 第2章 「傷つくこと」について私たちが誤解していること
  • 第3章 「恥」というグレムリンを退治する
  • 第4章 なりたい自分になるために、武器を手放すということ
  • 第5章 理想と現実のギャップを埋める方法
  • 第6章 人間性を取り戻す破壊力のある関わり
  • 第7章 「偽りのない」子育てのための終章
自分の弱さやもろい部分を認め、傷つく可能性と向き合おうとするかどうかで、どれだけ勇気があるか、どれだけ明確な目的をもっているかがわかる。また傷つきやすい自分の生身をさらせるかどうかは、不安や人とのつながりの断絶度合いをはかる尺度になる。
観客席やサイドラインの外側から批判を浴びせ口出しをするのではなく、勇気をもって存在を示し、生身の自分をさらすこと。それがヴァルネラビリティであり、果敢なる挑戦なのだ。
「あの人たち」を非難して「自分はましだ」と思わせてくれる論理には、私たちは気をよくするものだ。
偽りのない心の中心には、ヴァルネラビリティと自己肯定感がある。確実なものがなく、もろさをさらし、感情的リスクを負いながらも、私はこれでよいと思えることである。
ヴァルネラビリティとは、「不確実性、リスク、生身をさらすことである」と、私は定義している。
ヴァルネラビリティを分析するときに、くり返し出てくるキーワードがある。それは「裸になる」だ。
私たちは他人がありのままの真実の姿をさらすことは歓迎するが、自分がそうすることは不安なのだ。
あえて身をさらす勇気は人を変える。そのたびに少しずつ強くなれる。
ヴァルネラビリティは互いの信頼関係に基づくものなので、境界線を必要とする。
人の助けを必要としない人はいない。
私たちは決して自分の力だけでは、生身をさらし勇気をもって歩みだすことはできない。最初の、そして最大の果敢なる挑戦とは、助けを求めることなのかもしれない。
勇気ある挑戦をするには、傷つく可能性を受け入れなければならない。だが恥に怯え、人にどう思われるかを気に病んでいては、生身はさらせない。
自分の価値を他人の評価にゆだねたとき、恥はあなたの人生をのっとり支配するようになる。
「見えないところでイノベーションをつぶしているのは、恥の意識だ。数値化できるわけではないが、たしかにそれは存在する。新しいアイデアを引っ込めてしまったり、本当に必要な意見を上司に言わなかったり、クライアントに率直に伝えるのを思いとどまったりするときには、必ず恥の意識が働いている。間違える不安、見くびられる不安、自分は劣っているという不安が企業の前進に必要なリスクを負うのを妨げる。創造性とイノベーションがあり、市場レベルでも個人レベルでも過度なリスクが許容されるような企業文化を築くには、まず管理職が、弱みをさらけだせるようなチームの雰囲気を作れるようになることだ。そのためには逆説的かもしれないが、まず管理職自身が弱みをさらけださなければならない。リーダーがすべてを仕切り、何でもわかっているべきだと考えるのは、時代遅れで、むしろ害になるくらいだ。他の人々が『自分はよく知らないので』『能力が足りないから』と言ってリスクを回避するようになるからだ、恥が不安を生み、不安がリスク回避を生み、リスク回避がイノベーションをつぶすのである」
精一杯生きるとき、失望し、傷つき、胸が張り裂けるような思いをすることは避けて通れない。だがそれを乗り越えて進むためには、たとえ敗北したとしても、それで愛や居場所、喜びに値しなくなるなどと決して思ってはならない。そう思ったら、二度と挑戦できなくなるだろう。
私たちは自分自身が恥を感じやすい領域で、自分より劣る人を批判する傾向がある。
大切だと思っている人ほどたやすく傷つけることができる
私たちは無防備な自分を絶対に見られたくはないが、他人には一番無防備さを求めるのだ。
完璧主義は才能や目的意識の道ではなく、かえって危険な回り道のように見える。
豊かなつながりのある人生を送るとは、煎じ詰めると、境界線を引くことだ。どうでもいい他人の関心を得るために駆けずり回る時間とエネルギーを減らし、家族や親しい友人とのつながりを豊かにすることなのである。
自分の行動の背後にどんな思いがあるのか、自己分析し内省することが必要だ。
自己肯定感 ‐「私はこれでよい」と思えること‐ は、生まれた家庭で始まる
自分がもっていないものは子供にあたられないことを認識し、子どもと一緒に成長し、変化し、学ぶ
偽りのない子育てとは、すべてに正解を見つけてそれを教えることではなく、子どもと一緒に学び、探求することだ。
叱るとき、子どもの行動と子ども自身をきちんと切り離しているだろうか。
子ども時代の恥の経験は、その人の人格、自己認識、自己肯定感を変えてしまうということである。
私にとって子育てで問うべき価値は、「関わる意欲」である。
関わるとは、時間とエネルギーを注ぐことである。子どもの隣に座って、子どもの世界、興味、考えていることや体験したことを理解することなのだ。
ただ批判するだけの人に価値はない‐強い人のつまずきを指摘し、やり手ならもっとうまくできたはずだとあげつらうだけの人には。称賛に値するのは、実際に競技場に立ち、誇りと汗と値にまみれながらも勇敢に戦う人だ。あるときは間違いをおかし、あと一歩で届かないことが何度もあるかもしれない。何をするにも間違いや欠点はつきまとう。それでもなお、ことを成しとげるためにもがき苦しみ、情熱に燃え、力を尽くし、大義のために身を粉にして励む人こそ偉大なのだ。順風ならば最後に勝利に輝くだろうし、最悪の場合、失敗に終わるかもしれない。だが彼らは、少なくとも果敢なる挑戦をしたのである。
セオドア・ルーズベルト