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読書記録と日常のあれこれ。

実力も運のうち 能力主義は正義か?|読書メモ

「運も実力のうち」は聞いたことがあるけど、「実力も運のうち」ははじめて聞いた。
意味はそのままで、運をも味方につけた成功者は全部ひっくるめて自分の実力、というのが前者で、後者はその実力は本人がコントロールできない要素に含まれている、と言っている。
すなわち出自や家庭環境などは生まれてくる本人はコントロールできないのにその環境次第で運命も大きく変わってしまうこと。
本書では現代の学歴偏重主義や能力主義を起因とした世の中の歪みを批判し(全部ダメとは述べていない)、機会の平等だけでなく条件の平等や共通善という考え方を肯定している。
たしかに学歴格差や行き過ぎた能力主義は色々な問題を発生させているのは事実かもしれない。また、職業に対しても優劣を付け、いわゆるホワイトカラー、ブルーカラーという形で区分し卑下するといったことも米国だけでなく日本でも無意識的に行われていそうな気もする。文化や思想も絡むため、根本的解決は非常に難しい問題だと感じたが、まずは問題意識を持ち、そうならないためにはどう考え行動すべきか、を考えるところからがスタートだと感じた。1度読んだだけだと理解しきれなかったため、気になった部分のメモを見つつ、あらためて読み直してみたい。

序論 入学すること

不平等な社会で頂点に立つ人々は、自分の成功は正当なものだと思い込みたがる。能力主義の社会において、これは次のことを意味する。つまり、勝者は自らの才能と努力によって成功を勝ち取ったと信じなければならないということだ。

謙虚さを持つことでそれは正しくない、ということを理解できるのではないか。

第1章 勝者と敗者

下から見上げると、エリートのおごりはいら立たしいものだ。他人に見下されて喜ぶ者はいない。ところが、能力主義の信念は敵に塩を塗る。自分の運命は手の中にあるとか「やればできる」という考え方は諸刃の剣であり、人を元気づける面と不愉快にさせる面がある。こうした考え方は勝者を称える一方で敗者をー彼ら自身から見てもー傷つける。仕事がみつからない、あるいは生計を立てられない人々にとって、意気消沈させるこんな考え方から逃れることは難しい。彼らの失敗は自業自得であり、成功するための才能や意欲が欠けていたにすぎないのだ、と。

これは競争することによるプラスの効果に期待し偏重しすぎた結果なのか?

テクノロジーやアウトソースに起因する失業に伴って、労働者階級が携わる仕事に対する社会の意欲が低下していると感じられるようになった。経済活動がモノをつくることから資金を運用することへと移行し、ヘッジファンドのマネージャーウォール街の銀行家、知的職業階級などに対して社会が途方もない報酬を気前よく与えるようになると、昔ながらの仕事に払われる敬意は脆く不確かなものになった。

この問題はコロナの影響でより顕著になっいると感じる。もちろん日本でも。

第2章 「偉大なのは善良だから」 能力の道徳の簡単な歴史

健康や富を称賛や非難の問題とみなすことは、人生を能力主義的に見るということだ。幸運や恩寵の役割は認められず、自分の運命の全責任がわれわれに押しつけられる。世に起こるあらゆることは、われわれがなす選択への、またわれわれの生き方への報酬あるいは罰なのだ。こうした考え方は、徹底した支配と制御の倫理を称賛し、能力主義的なおごりを生み出す。そのせいで成功を収めた人々は自分が「神の仕事をしている」と信じるようになる一方、ハリケーン津波、健康障害といった災難の犠牲者を、彼らの陥った状況について非があるとして見下すようになる。

第3章 出世のレトリック

懸命に働くすべての人が成功を期待できるとすれば、成功できない人は自業自得だと考えるしかないし、他人の助けを頼むことも難しくなる。これが能力主義の過酷な側面だ。

結果が全て、といい切れるのは成功者だけで失敗した者は自己責任論に押しつぶされてしまうということか。

第4章 学歴偏重主義 容認されている最後の偏見

「真の問題は、労働者の権力が足りないということであり、労働者の知性がたりないということではなかった。生産していた人々は、自分がつくったものの分前を要求する力をうしなっていった。所有していた人々は、ますます多くのものを手に入れていった」

格差社会を的確に言い表している。

高学歴のエリートも低学歴の人々に劣らず偏見にとらわれているというのが彼らの結論だ。「むしろ、偏見の対象が異なっているのだ」。しかも、エリートは自らの偏見を恥と思っていない。彼らの人種差別や性差別は非難するかもしれないが、低学歴社に対する否定的態度については非を認めようとしない。

これも能力主義が主流が上に起こる事象のように感じる。

こうして、恥の感覚が欠如する理由は、能力主義に基づく自己責任の強調にある。エリートたちは、貧しい人びとや労働者階級に属する人びと以上に、学歴の低い人びとを嫌う。貧困や所属階級は、少なくともある程度まで、個人のちからではどうにもならない要因によるものだと考えているからだ。対象的に、学業成績が悪いのは個人の努力不足であり、したがって大学へ行けなかった人の落ち度を示すというわけだ。「労働者階級とくらべると、学歴の低い人びとはより責任が重く、より非難に値すると見なされる。彼らはより大きな怒りを買い、よりいっそう嫌われるのだ」

「学歴の低い人びとは、学歴の低い人びと自身によってさえ、自らの状況に責任があり、非難に値すると見なされている」

テクノクラート的な政治手法の欠点のひとつは、意思決定をエリートの手に委ね、したがって普通の市民の力をそいでしまうことだ。もう一つは、政治的な説得というプロジェクトの放棄である。エネルギーを節約する、体重に気をつける、論理的な商慣行を守るといった責任ある行動を取るよう人びとをインセンティバイズすることは、それを人びとに強要することの代替策であるばかりではない。それは、人びとを説得する代替策でもあるのだ。

第5章 成功の倫理学

運の平等主義者によれば、危険を冒すことを選ぶ人びとは、賭けが裏目に出た場合にも自らの運命に責任があるという。コミュニティが救いの手を差し伸べる責任を負うのは、自業自得ではないーたとえば隕石に当たるようなー不運の犠牲者に対してだけだ。自らの意思で行った賭けに負けた人は、勝者に助けを求めることはできない。ロナルド・ドウォーキンはこの点を強調すべく、「自然的運」(隕石の被害者)と「選択的運」(賭けに負けるギャブラー)を区別している。

能力主義のおかげで人びとが「神から与えられた才能の許すかぎり」出世できるとすれば、最も成功を収めた者は最も才能のあるものだと考えたくなる。しかし、これは間違いだ。金儲けでの成功は、生来の知性にはーそういうものがあるとすればの話だがーほとんど関係ない。所得の不平等の腫瘍として生来の才能に固執することで、平等主義的リベラル派はその役割を誇張し、無意識のうちにその威信を増幅しているのである。

第6章 選別装置

能力の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。まるでサーカスの輪くぐりのように、目の前の目標に必死で挑む習慣は、なかなか変えられない。多くの学生がいまだに競争に駆り立てられていると感じている。そのせいで自分が何者であるか、大切にする価値があるのは何かについて思索し、探求し、批判的に考察する時間として学生時代を利用する気になれない。心の健康に問題を抱えている学生の多さは、危機感を覚えるほどだ。

第7章 労働を承認する

ほかの面では礼儀正しい社会で、エリート(進歩派が目立つ)が無意識に労働者階級の白人を馬鹿にすることがあまりに多い。よく耳にするのは、「飛行機が素通りする(発展の遅い内陸の)州」で「トレーラーハウスに住む貧乏人」が「配管工の持病(腰痛)」に苦しむ、というような言い回しだ。ある階級へのあからさまな侮辱が、気の利いた冗談として通っているのだ。このような蔑視は政治キャンペーンにも影を落とし、ヒラリー・クリントンの「みじめな人たち」という発言や、バラク・オバマの「銃や宗教にすがる」人びとという言い方にも表れている。

ロバート・F・ケネディは、1968年に党の大統領候補者指名を目指していたとき、それを理解していた。失業の痛みは、たんに失職により収入を絶たれることではなく、共通善に貢献する機会を奪われることだ。「失業とは、やることがないということーそれは、ほかの人たちと何の関係も持たないということです」と彼は説いた。「仕事がない、同胞の役に立たないということは、実際には、ラルフ・エリソンが描いた『見えない人間』になるということなのです」

給料について考えてみよう。さまざまな仕事に支払われる額が、その仕事の社会的真価に対して高すぎたり低すぎたりすることがままあるという点では、大方の意見が一致するはずだ。富豪のカジノ王による社会への貢献には、小児科医のそれとくらべても千倍もの勝ちがあると言い張るのは、熱烈なリバタリアンだけだろう。2020年に起きたパンデミックのおかげで、多くの人は、少なくともしばしのあいだ次の点に思いを致さざるをえなくなった。つまり、スーパーマーケットの店員、配送員、在宅医療供給業者、その他の必要不可欠だが給料は高くない労働者がいかに重要かということだ。ところが、市場社会は、稼いだお金と共通善への貢献の価値を混同する傾向になかなかあらがえない。こうした混同は、たんに浅はかな考えの産物にすぎないわけではない。哲学的議論によって欠点が明らかにされてもなお、解消されないのだ。そこには、この世界はわれわれが受け取るものと受け取るべきものが一致するようにできているという、能力主義的な希望の魅力が反映されている。その希望が、旧約聖書の時代から、現代の「歴史の正しい側」にいるという言い方にまで通じる摂理主義的な考え方を後押ししてきたのである。

結論 能力と共通善

自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。