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悪いヤツほど出世する|読書メモ

 

 

 

リーダーシップのカリスマ教祖たちに備わっているのは、科学的知識や実績ではなくて、知名度や人気である。たとえば、TEDで講演をした、人気ブロガーである、ツイッターのフォロワー数が多い、リーダーシップの本を書いた、といったところだ

 「はじめに」ではいきなりこんな具合から始まり、世の中のリーダーとよばれる者たちの大半は、理想とはかけ離れた存在だと言い切り、その原因や実例が本書の中で語られている。

曲がりなりにも大学院でリーダーシップ論を学んだ自分としては、本書の内容はその一部を否定されたような感じがして若干ショックを受けたりもした。

でも、実際世の中を見渡してみると本書で語られているような事象は、おそらくあちこちでおきていそうだし、いわゆる聖人君主はほぼいないという点は納得できる。

悪いヤツも色々なタイプがいて、腹黒い、二面性がある、自己中心的等のさまざまだが、この本では良くも悪くも”したたか”で”二面性がある”タイプがそれに当てはまるような気がした。

正直に誠実にやっていては生き残れない。そんな世の中だからこそ、図太く、時にずる賢く振る舞う必要があるのかもしれない。

なんとなく、踊る大捜査線の青島と室井を思い出すようなださないような。必要悪なのか、清濁併せ呑むうちに悪に染まってしまうのか。

そんなモヤモヤを感じずにはいられない内容だった。

 

以下、自分用のメモとして。

 

序章 リーダー教育は、こうして失敗した

大前提、リーダー教育は巨大産業であり、金のなる木である。上昇志向の強いビジネスパーソンたちは、有名講師やリーダーシップ論の著者たちのもとを訪ね、リーダーシップ教育を受ける。そこでは至極まっとうなリーダーとしての理想を教えられ、ビジネスパーソンは感銘を受け、熱量も上がる。

一方で、有名講師やリーダーシップ論の著者たちは本当に優れたリーダーなのか?そもそもどうなったらすぐれたリーダーだと言えるのか。そんな当たり前をも確認しないまま盲目的にリーダーシップ論を学び、それを職場で実践しようとしてしまう。

でも実際の現場で教えられたことをやろうとしても、ほとんどうまくいかない。むしろより状況を悪化させてしまうことさえある。

理由は多々あるが、その一つとして、リーダー個人の利益と会社の利益が一致しないことがままあるということが上げられる。

人間は自分の生存確立を最大化しようとする性質がある。ところが、集団の存続は個人の犠牲の上に成り立っている。

そうなるとリーダー個人としてはまずは自分の安全を確保した上で次にメンバーということになる。

戦場で先人を切って命を張るようなリーダーは実は存在しないのかもしれない。

 

第1章 「リーダー神話」は、百害あって一利なし

出世しているリーダーは言語不一致である。つまり、リーダーシップ教育での教えと正反対をしているということに気付くべきである。

また、リーダー自身が語るストーリーは信用できない。なぜなら人間は自分をひいき目で見がちだからだ。たいていのことに対して自分は平均以上だと思っているし(表に出さずとも)、自分が秀でていると考えてしまう。

また、心理学者のウィリアム・フォン・ヒッペルは、「人間の知覚にバイアスが掛かっているという事実は、様々な方法で自己欺瞞が行われており、場合によっては真実の無意識の知覚さえできなくなる可能性があるということを示唆する」と指摘する。

 

感動はなんの役にも立たない。

感動的なセミナーが終わり、職場に戻ると、そこには同じ同僚、同じ部下、同じ上司がいて、取引先も同じである。感動体験をして戻ってきたあなたは、これまでとは違う行動、違う対応をしようと努力するかもしれない。だが掛けてもいいが、そうはなるまい。長く続けてきた行動は、なまなかのことでは変わらないのである。

なかなか、耳の痛い話ではあるが、納得せざるを得ない部分もある。

 

第2章 そもそも控えめなリーダーはいるのか?

NBAのスター選手であるブラッドリー曰く、

「リーダーは和を重んじ、控えめで、寛容でなければならない」

と語っている。

しかし、残念ながらこれらの資質を備えたリーダーは、特に大きな組織にはほとんど見かけないらしい。なかでも控えめなリーダーなど存在しない著者は言い切る。

控えめは謙虚とも言いかえられ、この謙虚さはリーダーに欠かせない資質であり、「ビジョナリー・カンパニー2」の中でもその重要性が語られている。

だが、”謙虚でない”でないリーダーの方が世の中には多く、かつ、その方がより成果を上げているという。出世競争の中では謙虚さが仇になることさえある。その理由は以下のように語られている

慣例を打ち破り、既存製品や産業やビジネスモデルのあり方を変えるような先駆的なイノベーションをもたらす人間には、制約や既成概念に対する軽蔑、逆境や拒絶反応に立ち向かう意思の強さが欠かせないと指摘する。

 ようは謙虚さよりも自己中心的なナルシストに特徴的な資質の方が出世する人間に必要だと言うのである。リーダーはある程度のナルシズムやうぬぼれ、自己陶酔を持ち合わせている。それが表に出やすいか出にくいかという程度の差はあれど。

リーダーは目立つ存在なので、人に知られれていること、ブランドを確立することの方が重要である。また、UCBerkleyのアンダーソン氏は自信過剰な人物は、高い社会的地位、尊敬、軽協力をも勝ち得ているという調査結果を発表している。

ナルシスト型の人間は自分を目立たせ、さらには際立たせる行動をとるうえ、異聞にはリーダーの資質十分だとうぬぼれ、自分に対する期待値が高い。そういう人間は自分の主張を強く押し出し、自分の利益になるように行動するので、集団をやすやすと支配するようになる。

謙虚=控えめなリーダーより、ナルシスト型のリーダーのほうが組織から選ばれる可能性が高いとも本書には書かれている。そして、リーダーシップ本でどれほど謙虚さが重要視されようと現実の世界ではキャリアアップに役立つのは自己宣伝や自己主張だとも言い切っている。

ここまでの主張を見ると、”ほどほどに控えめ”なリーダーがバランス良く、理想的に思えるが、現実にはほぼ存在せず、ナルシスト型のリーダーが良しとされ、選ばれているのが実情なのかもしれない。

たしかに、スティーブ・ジョブズも性格は最悪だったらしいしな、、。

 

第3章「本物のリーダー」への過信と誤解

自分の気持ちに忠実にふるまうことはリーダーが最もやってはならないことの一つである。リーダーはその状況で求められている通りに、周囲の人が期待する通りに、振る舞わなければならない。そして多くの人が求めるのは、きっとうまくいく、という安心感である。

これはリーダーは演じるべき、という論調にも感じるし、自己矛盾に満ちているとも言える。

あのネルソン・マンデラにおいても矛盾に満ちた人物だったという

マンデラの若い頃は一時的に南アフリカ共和党の一員だったことがあり、かつ長期にわたて共産主義者と手を組んでいた。このことは彼のイデオロギーよりもむしろ現実主義を物語っている。彼は黒人国家主義者であると同時に人種差別撤廃論者であり、武力行使に反対する一方で暴力を容認し、短期であると同時に冷静であり、マルクス主義の本を愛読すると同時に欧米の民主主義を賛美し、共産主義者と連携しながらも、大統領になると国内有数に有力資本家と手を組んだ

なるほど。こう見るとたしかに矛盾に満ちている。ただ、リーダーといえど一人の人間。素の自分をさらけ出してしまってはうまくいかないこともあるし、演じた方が上手くいくこともある。また、その時々で必要とされる思考や立ち振舞はかわるため、外から見ると矛盾に満ちていても本人にとってはTPOに応じて最適な選択をしているだけなのかもしれない。

「つねに自分らしく」は不可能だし、それが成功を阻むこともある。それであれば成功確立を上げるために、自分らしくない言動は致し方ないのかもしれない。

環境に応じて人は変わるということを忘れてはいけない。

 

第4章 リーダーは真実を語るべきか?

正論で言えば真実を語るべきである。

しかし、全てを正直に話すのは得策ではないし、必要悪という形で嘘をつくこともある。もしくは、嘘と真実の境界線を曖昧にして自分自身を騙し、それっぽく話すこともあるだろう。事実、スティーブ・ジョブズは目的を達成するために現実や真実を曲げる傾向がある、見られていたらしいし、オラクルのラリー・エリソンも顧客をつなぎとめておくためには多少の誇張はやむを得ないと公言していたらしい。

権力と嘘は持ちつ持たれつの関係にある権力を持つ人ほど嘘が容易になり、巧みに嘘で切り抜ける人ほど権力をもつようになる。

うーん、切ない、、。でも悪いことばかりではなさそう。

ポジティブな嘘は人間関係を円滑にし、気まずい場面を乗り切る効果がある。すくなくとも巧みな嘘は、その目的を十分に果たせるようである。また、多くの人は自分の嘘はよき意図からだと考える傾向にあるらしい。

おもしろいのは確信を持って繰り返し嘘をついているうちに嘘は真実になる、と書かれていたこと。これは自己実現的な予言とも呼ばれているらしい。

リーダーは正直であるべきだが、必要に応じて嘘はつくし、その方がうまくいきやすいのかもしれない。

 

第5章 上司を信じてよいものか

信頼は多くの社会的な関係で接着剤の役割を果たし、リーダーシップの基本だともよく言われる。事業の成功は多くの関係者が互いに協力しあわなければならないし、その中心にあるの信頼関係だ。

だが、企業に関するかぎり信頼が成功に欠かせないとかリーダーシップに不可欠だとはもう考えていないと著者は言う。

なぜなら様々なデータは企業における信頼の欠如を如実に表しているからであり、それでも会社は回り、信頼できないからといって制裁を受ける例はまれだとも述べている。

また、人間には自分が見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞く傾向(確証バイアス)があ、ということである。これと関連して非現実的な楽観的幻想(楽観主義バイアス)にも陥りやすいという。さらには自分の能力は平均以上だと根拠なく信じ込む傾向(平均以上効果)もる。自分には信頼できる人間とそうでない人間を見抜く能力があると信じ込むのも、この傾向の延長線上にあるらしい。

 すなわち、笑顔や人懐っこさ、信頼できそうな態度等のテクニックを駆使すれば信頼を得るのは比較的容易とも考えられる。そして、リーダーは信頼を踏みにじったとしても罰せられにくいという点も注目すべきである。

約束が邪魔になれば、平気で破る。破っても罰は受けない。そうした約束破りが横行すれば、誰もがやるという意味でそれが「当たり前」になる。すると約束破りはますます増え、倫理的批判を浴びることもほとんどなく、ビジネスでは仕方がないとか、組織内の駆け引きはこういうものだと容認されるようになる。すると違反はもっと増える、という具合である。

信頼が実に大切なものであることは言うに俟たない。リーダーにとって重要な資質であることは間違いないし、最後に自分を助けてくれるものもまた信頼である。その点に疑いの余地はない。唯一の問題は、大方のリーダーも大方の組織も、信頼が欠けていることだ。

 

第6章 リーダーは最後に食べる?

 部下を大切にせよ、リーダー自身の寛容と利他心を示せ、というようなリーダーシップスタイルを「サーバント・リーダーシップ」というらしい。

サウスウエスト航空の元CEOハーバート・ケレハーは「社員第一・顧客第二・株主第三」の経営哲学を提唱していた。

でも実際の現場ではどうやらちがうらしいく、リーダーは社員第一ではく我が身第一の行動をとる。

例として、平社員の賃金カットを要求しておきながらエグゼクティブは結構なボーナスや手当を受け取るとか、CEOと平均的な社員の報酬格差が拡大の一途をたどっているとか、社員の雇用を犠牲にしてエグゼクティブが雇用を確保するといったれいがあまりに多く、これが「最後に食べる」リーダーがほとんどいない証拠らしい。

リーダーは自分にとって都合が良かったり忠誠を誓っている部下、もしくは自分と似ていると思える部下であればそこそこ優遇するがそれ以外の部下に対してはさして助けたりはしない。この点も注目しておくべき点だと考える。

「最後に食べるリーダー」を育成するには会社の評価制度に組み入れ、報酬と紐付けるのが近道である。

 

第7章 自分の身は自分で守れ

他人はみな自己利益に基づき行動する。だから自分自身もそうするべきである。また、努力は必ず報われるという盲目的な考えも捨てるべきである。

自分の努力と勤勉は必ず認められ、評価され、報われると期待している人は、そろそろ自分で自分をだますのをやめなければならない。もし自分の功績と忠誠心に対して報奨や地位が約束されるという暗黙の契約が存在すると考えているなら、そういう暗黙の契約はけっして守られないと肝に命じるべきだ 

第8章 リーダー神話を捨て、真実に耐える

他人の言葉ではなく、行動を見よ。なぜなら行動はウソを付かないからである。「こうあるべき」というリーダーの言葉よりも「こうである」という事実の行動を観察れすればこの言葉の意味もよくわかる。

そして、リーダー神話はめったにいないような実に立派なリーダーの研究ばかりが行われているという点も見逃せない。こうした例外的なリーダーを紹介すうすることでリーダー教育に興味のあるまたは苦しんでいるビジネスパーソンは一縷の望みを掛けてその講座を受講するだろう。でも、神話にでてくるような聖人君主のようなリーダーになれずにお金と時間を消費して終わるのが関の山である。

 

理想と現実の不一致、まずはこれらを認めることから始める。不一致がわかれば次はなぜそれがうまくいっていないのかを考える。そして、不一致を一致に変える努力をする。端的に言うとその繰り返ししかない。

人間の行動に関する社会科学の知見にも現実のデータにも基づかないやり方でこれ以上、リーダーシップ神話を振りまき、人々をいい気分にさせるだけではうまくいかないことは、はっきりしている。ひとは真実に耐えられるはずだ。真実と早く向き合うほど、誰にとっても結果はよりよいものになる。そのためには誰もが、そう、リーダーだけでなくすべての人が、がんばって続けなければならない。

 

雑感

”悪いヤツほど出世する”のであれば、いい人は出世しないのか?

個人的には、Noだと思う。

悪いヤツの方が出世しやすい世の中、というのが正しい見方で、いい人でも出世するケースも少ないながらもあるだろう。

また、現在では不正や悪巧みが明るみにでやすくなっているし、そうなった時に顔の知らない誰かや無関係な誰かからさえも避難されやすい状況でもある。

そういった環境が広がり、いい人=正しい行いが正当に評価されるようになれば、この本が古典として扱われるようになるかもしれない。

でも、誰かに取っては悪でも別の誰かにとっては悪ではないという見方・考え方もあると思うので複雑でも難しい問題だな~、という思いが読後感として残っている。

内容を消化するにはもう少し時間がかかりそうだ。