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読書記録と日常のあれこれ。

陽明学 生き方の極意|読書メモ

 

読んだので自分用の読書メモとして。

陽明学儒教であり、儒教の核心は「修己治人」の学

儒教を学問や思想レベルまで高めたのが孔子で、その教えを受け継いてさらに破天させたのが孫弟子の孟子。なので、儒教は別名、「孔子教」や「孔孟の教え」などと呼ばれている。

儒教はさまざまな内容を含んでいるがその核心をずばり一言で言えば「修己治人」の学ということになる。

読み下すと、己を修め人を修、となる。

己を修とは能力を磨き、徳を身に着け、能力と人格の両面にわたって自分を磨くということでこれがすべての出発点になる。自分を磨いたのち、社会に出て、しかるべき地位につき、人の役に立つことまでがワンセットとなる。

しかるべき地位について人々を導くには信頼が必要で、そのためには自分自身を磨き上げる必要があるという考え方。これが「修己治人」の教えの核となる。

陽明学も、修己治人の学の実現を目指したと言われている。

 

陽明学は実践重視でその象徴が知行合一

知行合一=知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成である”

もともとは自分を磨く方法として唱えられたものだと言われていて、その前提として「心即理」という考え方があり、これは自分の心こそ理であるとし、その心をもって万物のあり方を正していくことが、自分を磨く方法なのだと主張している。

 

シンプルに言うと、知ることと行うことはセットなので分離できない、という考え方。

若干わかりにくいのは”行うこと”の定義でこれは体験だけでなく、”心で思ったこと””感じたこと”も行いであると説明されている点。

なぜ?と思われるかもしれないが、心の中には「天理」と「人欲」があり、天理は生まれ持っている人間としてのすばらしい資質、人欲は悪しき欲望のことを言う。

人間は強くないので人欲が心の中を乗っ取り、天理を覆い隠してしまうことがある。そうならないためには常に天理を実践し、人欲を取り除くべきという考え方になる。

人欲だらけの心になると知行合一ができない状態にもなってしまうので、常に天理を磨き上げる必要がある。

ちなみに天理は良知とも言い換えられ、良知を磨き、自分を確立することで知行合一が可能となる。

 

「口耳の学」という言葉もなり、これは耳で聞いて口から出してしまうのは身にならない浅薄な学問という意味。いくらインプットしても使えなければ無意味とも言える。

なので、知行合一が大事という結論になる。

 

事上磨練

仕事や生活の場で学び自分を磨け、という考え方。

読書や人の話をきくのもいがそれだけでは身につかず、実践ありきということ。

また、苦労から逃げずに何度も這い上がった経験が更に自分を強くするため、逆境から逃げなるなという意味も含まれる。

ポイントは、根本=致良知を押さえること、そして、自己を律し、わからないままでうやむやにしないこと、最後に近道を求めすぎず、一歩一歩着実に歩むこと、それだけ。

 

致良知

根本を把握し、押さえろ、という考え方。

根本とは致良知のことであり、常に良知の発現に努めよ、ということ。

自分を磨く上でも致良知が根本であり、急所となるため、ここを常に押さえる必要がある。


万物一体の仁

他人の苦しみを自分の苦しみとして感じる心のこと。

言い換えると、共感力や思いやりなどが近い。

良知はもともとある良い資質なので良知の発現=仁と言える。

陽明学は行動学だがその行動へ駆り立てる重要な要素が万物一体の仁でもある。

周りの目を気にせず、良知に従って行動し、他人の苦しみを救うことに意義がある問いている。

 

抜本塞源論

根本から悪の根源を絶つという意味。

王陽明によると学問や修養の目標は己の内なる良知を発現することにあり、その彼からすると当代の学問はその目標を失い、功利に流れて、いたずらにつまらない知識を追い求めてしまっている。そうなると世の中が良くならないので抜本塞源論を強く唱えていた。

 

志立たざれば、舵なきの舟。銜なき馬のごとし。漂蕩奔逸して、終にまた何の底る所ぞや。

目標を設定し、その目標に向かって継続的な努力を惜しまないとだめ、ということ。

目的地がないとどこにいけばいいかわからないし、何をやるにしても目的がないと意味無いでしょ、という理解。

志を持ち続けるのは心に痛みがある時の状態に似ている。心に痛みがあるときはムダな話をしたり、ムダなことに関わったりしている暇はない。

志を立て、心を燃やせ(内なる闘志とも書いてあった)、という言葉もあり、アツいなと感じた。